映画鑑賞記「判決、ふたつの希望」

公開日 2018年09月11日

判決、ふたつの希望

監督  :ジアド・ドゥエイリ 
原題  :L'insulte
製作年:2017年
製作国:レバノン・フランス合作

1990年にレバノン内戦が公式には終結となり、それから30年。この映画の主人公は内戦中に生まれ、育った世代だろう。
単純な国などないけれど、レバノンは特に複雑だ。
中東でもキリスト教徒が多く、次いでイスラム教シーア派、スンニ派。それらが現在バランスを取っているような状態で、さらに隣国イスラエルからのパレスチナ難民がいる。

ほんの些細な事から、二人の男性がいさかいを起こす。
謝る謝らないから始まり、感情的に行き過ぎた許せない言葉、出てしまった拳、それが裁判沙汰となり、その二人のもめごとは、いつか二人を越えて国を二分する争いになっていく・・・

本作の原題は、フランス語で「侮辱」。
本作の、トラブルの発端になった事件は、キリスト教徒であるレバノン人トニーが、パレスチナ人であるヤセルにうっかり(本当はわざと)水をかけることになってしまったことだ。
それに続くトニーの行為は、パレスチナ人であるヤセルに対する「侮辱」に他ならないし、また、もちろんヤセルから出た言葉も「侮辱」である。

まあ、でも、どう見てもトニーのほうがやりすぎ感があって、いやいやそんなに意固地にならなくてもいいんじゃない?それにさ、ヤセルだって、はいはいごめんねって謝っちゃえば済むんじゃない?とついつい思いながら物語が進んでいく。そして、物語が進むにつれて、トニーとヤセル、二人がそれぞれに背負っていた苦しみと痛みが徐々に見えてくる。

トニーが謝罪を求めたのは、ヤセルにではなく、あの時のPLOに対して、そして、彼ら家族が受けた苦難をなかったことにして存在する今のレバノン社会に対して。
そしてヤセルが沈黙したのは、今もまだ難民として生きなければならない民族の誇りと苦難の歴史からだ。

意固地ともいえるほどかたくなな態度を示すトニーの、その意固地さの理由がわかったときには、言葉が出ない。

そしてまた、二人の裁判に乗じて、パレスチナ人とレバノン人キリスト教徒~難民として差別ともいえる不自由さを抱えているパレスチナ人と、パレスチナ人が自分の国に不当に居住にしていると感じるキリスト教徒~が爆発寸前まで不満を膨れ上がらせる。レバノンという国は、宗教間の対立の中でバランスを取って成立しているわけだが、それは不満に強引に蓋をしているだけなのだということが露わになり、現在の世界の移民の問題も想起され、背筋が寒くなる。

だが、本作は、ただそのような問題を羅列しているだけのものではない。
トニーもヤセルも、やがて、宗教や歴史、民族を離れ、ひとりの人間として、静かにお互いを認めるようになる。それは、不寛容さであふれる世界の中での「希望」だ。
対立に揺さぶられるこの世界は、一人ひとりの結びつきから変わっていくことができるのではないか、と思わせてくれる。

レバノン内戦について予備知識がなくても大丈夫だけれど、レバノンでイスラエル軍とレバノン民兵によるパレスチナ難民の虐殺が行われたこととその時のイスラエルの国防相がシャロンであったことが頭にあると、ヤセルがトニーの肋骨を折るほどの暴力をふるってしまったことが理解できる。

ちなみに、その虐殺(サブラ・シャティーラの虐殺)を扱った「戦場でワルツを」というイスラエル映画(アニメーション)もオススメです。かなり重いけれど。

2018年9月2日鑑賞 by K.T